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チャック・イェーガー(AD1923年2月13日生まれ)は、初めて音速を超えた冒険者です。後年彼は偉業達成の時のことを、「一瞬静寂に包まれ、死んだと思った。」と語りました。

乾燥した空気の中で、1秒間に約330メートルもの速さで伝わって行く音は、それを越す速さで進む者の耳には決して届きはしません。彼の偉業を成し遂げさせた実験機ベルX-1の機体から発せられるあらゆる音は、全て彼の後方へと置き去りにされていたのです。

ギリシアの哲学者アルキタス(BC428~347年)は、高音は速く低音は遅く伝わると唱え、テオプラストス(BC371~287年)は、異なる高さの音の協和音は同時に聞えるので、音の高低は速さに関係が無いと反論しました。

BC1世紀、ローマの哲学者ルクレティウスは、雷の音がその光よりも遅く伝わることに気づきました。

AD1627年、科学者ベーコンが音速の測定方法を考案しています。そして、AD1635年になると、物理学者ガッサンディが大砲の音の速さを測定し、毎秒478メートルとしています。

人類の音速に対する興味はその後も続き、その測定はガリレオ(AD1564~1642年)の弟子たち、ニュートン(AD1642~1727年)、ラグランジュ(AD1736~1813年)など、多くの学者が関わってきました。

イェーガーが生まれた頃には、音速とは如何なるものかというのは既に明らかになっていて、彼にはその音速を追い抜くという冒険が待っていました。

AD1941年9月12日、彼はアメリカ陸軍航空軍に入隊しました。2年後整備士からパイロットになると、11月にはイギリスへP-51パイロットとして戦闘に派遣されたのです。

AD1944年3月4日、出撃7回目にして初めて敵の撃墜を果たします。ところが翌日には、フランス上空で逆に撃墜の憂き目に遭うのでした。

本来撃墜されたパイロットはそのまま第一線を離れるのがルールだったのですが、彼は再三復帰を望み、戦闘飛行パイロットの座を守りました。そして、10月12日の出撃で5機を撃墜する記録を打ち立て、エース・パイロットの称号を手に入れるのでした。

アメリカは、第2次世界大戦終結後に空軍を創設します。イェーガーはこの空軍で、国家航空宇宙諮問委員会(NACA)が進める高速飛行計画に携わることになりました。

彼はベルX-1のテストパイロットとして、音速突破の冒険へと乗り出したのです。

AD1947年10月14日、イェーガーの試験機での飛行はすでに50回にも達していました。高度6,100メートルから母機を離れた試験機は、エンジンを2基、更に2基と順調に点火を続け、高度を上げていき、12,800メートルで水平飛行に入り、ついに音速を超えるマッハ1.06に達したのでした。

こうして、心配された衝撃波とそれに伴う振動も無く、初の有人超音速飛行はすごくあっさりと達成されました。

偉業達成の後は、最高記録の更新に力が入れられ、11月6日にはマッハ1.36、翌年3月26日にはマッハ1.45まで音速越えを続けたのです。しかし、マッハ2超えはクロスフィールド(AD1921~2006年)に先を越されてしまいました。

AD1953年12月12日、最速の男という称号を取り戻すべく、イェーガーはX-1Aで大空へと繰り出します。しかし、挑戦は記録マッハ2.44となんなく成功するのですが、再び栄光の称号を取り戻した彼に気の緩みがあったのか、もう少しで墜落という危機に直面するのでした。

その後もパイロットとして活躍し続けたイェーガーでしたが、AD2005年予備役少将となり、第一線を退いたのでした。