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常に争いの絶えない世の中で、国家間或いは国内での戦いを伝え続けるジャーナリストは、まさに命を賭けた冒険者と言えます。ロシア十月革命(AD1917年11月7日=ロシア暦10月25日勃発)を取材し、世界に伝えたジョン・リードは典型的な冒険ジャーナリストでしょう。

AD1887年10月22日、リードはアメリカのオレゴン州で生まれ、ハーバード大学で学び、社会主義に興味を抱くようになります。そして、メキシコ革命(AD1910~1920年)を取材している時、ロシア革命勃発の報を聞き、ロシアへと出立したのでした。

革命第1日目、8ヶ月ほど前に帝国を崩壊させ共和政国家に激震が走りました。今度はその臨時政府が崩壊し、レーニンのボリシェヴィキが武装蜂起し、ソビエト政府が権力を掌握し、モスクワではこれを支持する「軍事革命委員会」が設立されたのです。

午後9時45分、革命は臨時政府閣僚のいる冬宮への砲撃で始りました。守りは士官学校生と女性のみ、さほどの苦労もなく冬宮の占領が完了したのは、日が替わった午前2時頃のことです。

しかし、前政権の閣僚たちが捕らえられる中、首班ケレンスキーは脱出し逃亡してしまったのでした。リードはこの冬宮を取材し、生の状況を捉えています。

革命第2日目、新政権は平和と土地に関する2つの布告を発表します。すると、前政権側を支持するグループは、対抗して「社会保安委員会」なるものを設立するのでした。

革命第3日目、新政権は「人民委員会議」を作り、レーニンを議長としました。そして、前日発表した2つの布告を第2回ソビエト大会において採択したのです。

リードは大会の様子を次のようにルポしています。午前2時、土地に関する布告への反対票はたった1票、農民たちの歓喜、ボリシェヴィキは唯一明確な行動方針を持った党派で、他の党派は8ヶ月前の革命から時間を空費してきた、と言うのです。

この日、逃亡していた前政権首班ケレンスキーが、騎兵第3軍団長クラスノフを味方に付け、反撃の狼煙を上げます。更に首都ペトログラード市内では、社会革命党(エスエル)とメンシェビキ(穏健革命派)が「祖国と革命救済委員会」を設立し、主導権争いが始りました。

革命第5日目、士官学校生たちの反乱が勃発するものの、すぐに鎮圧されます。リードのルポによる電話交換嬢たちの証言では、押し寄せる新政権軍の兵士によって、降伏を申し出た反乱兵13人が殴られ、斬られして死んでいったと言います。

革命第6日目、ケレンスキーとクラスノフの軍が新政権軍に戦いを挑むものの、撃退されてしまいます。

革命第9日目、ついに社会保安委員会が負けを認め、和平協定が締結されます。

革命第10日目、晴れて世界が震えた日々が終息を見ます。主導権争いに勝った軍事革命委員会が、高らかにソビエト政権の成立を宣言しました。

リードはロシア十月革命の渦中にその身を投じ、実際に冬宮や要塞或いはクレムリンや党本部で体験したこと、様々な人々への取材ややり取りから、「世界を揺るがした十日間」というルポルタージュをまとめました。そして、本にはレーニン夫妻の賞賛の声が、序文として書かれたのです。

AD1919年、帰国した彼はアメリカ共産党を結成し、その社会主義への関心を開花させます。しかし、再びモスクワを訪れた時、彼の信奉する政権が推し進めた経済政策の失敗によって、民衆が困窮の真っただ中にあるのを見て、酷く衝撃を受けるのでした。

AD1920年10月19日、落胆の中リードはチフスに罹り、社会主義の地モスクワで生涯を閉じます。彼の遺体はソビエト連邦の英雄として、クレムリンの壁に埋葬されました。