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冒険者の意気込みは雄々しく、サラブレッドがゴール目指して一心に駆けているようにも思えます。もっと言うと野生の馬のように偉大な雰囲気を持っているようでもあります。

ところで、現在野生の馬というのはほぼ絶滅状態にあると言われています。今も野生のようにしている、サラブレッドやアラブ種などの流れも見て取れるアメリカのムスタングや、宮崎県都井岬に生息する天然記念物の御崎馬などは、元々飼われていたものが野生化したものなのです。

唯一、野生化したものではない本当の野生馬がモンゴルに生息しています。但し、一度は絶滅したことがあるようで、保護を受けながら現在は200頭以上に回復している他、世界中の動物園で1000頭以上が飼育されています。

この馬の名は「モウコノウマ(蒙古野馬)」と言って、現地では「タヒ(魂)」と呼ばれています。その発見者はロシアの探検家ニコライ・ミハイロヴィチ・プルジェヴァリスキーで、その後西洋諸国に知られるようになりました。

AD1839年4月12日(旧3月31日)、ニコライはロシア帝国のスモレンスクで生まれました。貴族の家系に生まれた彼は、帝国の首都サンクトペテルブルクの軍事アカデミーに入学し、ワルシャワ(現ポーランド首都)で軍事学校の地理教師となったのです。

AD1867年、彼は初めての探検ウスリー遠征に出ます。ウスリー川(アムール川支流)流域探索のため中央シベリアのイルクーツクへ派遣され、探検後には「ウスリー地方旅行1867-1869」として刊行されました。

AD1870~1873年、今度はモンゴルとタングート人の国まで足を延ばす探検に出ます。ゴビ砂漠・北京・チベットなどを進み、中国の西のヤクブ・ベクの王国による、イスラム教徒の反乱の重大な情報を持ち帰りました。

この時の探査範囲は1万8千キロ平米で、採集生物は植物・鳥類・昆虫・爬虫類・哺乳類が9千種以上、彼は地理学協会のメダルを授与され、中将に昇進、皇帝の幕僚になるなどの栄誉を得ました。その上、イスラム教徒反乱の情報によって、彼の地理学協会での講義は大喝采となったのです。

AD1876~1877年、ニコライが次に向かったのはチベットのラサでした。探検隊の構成は隊員10名・ラクダ24頭・馬4頭・荷物3トン・資金2万5千ルーブルでしたが、隊員の病気とラクダの質の悪さに苦しめられたのです。

探検隊は、シルクロードを南北に従える天山山脈を越え、さまよえる湖ロプノールと思われる湖を発見、探検の途中でラクダと馬を交換し、新たに弾薬・ブランデー・茶・ロクム(トルコ菓子)を補充し、ラサを目指しました。しかし、この目的地に達することはできませんでした。

AD1879~1880年、再びラサを目指したニコライは、哈密(現中国クムル市)・ツァイダム盆地・ココノール(青海湖)と進みます。そしてモンゴルにおいて、唯一の野生馬モウコノウマを発見するものの、最終目的地ラサまで残り260キロという所で、チベット当局から探検を中止させられたのでした。

AD1883~1885年、またも探検に出たニコライは、キャフタ・ゴビ砂漠・天山山脈東部・揚子江・ココノール・ホータンそしてイシク・クル湖と回りました。彼の5回もの探検で報告された動物の多くは、彼の名に因んだ種名が付けられ、その成果が記録されています。

AD1888年11月1日(旧10月20日)、様々な業績を残したニコライは、チフスのため亡くなります。その死の原因は、最後の探検に出る直前に飲んだ川の水にあり、ロシア皇帝は彼を偲び、その川のあったカラコルの町名を、プルジェヴァリスクと変えさせたのでした。