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AD1818年3月12日(文化15年2月6日)、伊勢国(現三重県)の郷士・松浦桂介の四男として、武四郎(たけしろう)が生まれました。探検家、浮世絵師や好古家という肩書を持った人物です。

その雅号:北海道人が示すように、蝦夷地に深くかかわり、蝦夷地を「北海道」と呼ぶことにした人物でもあります。彼の生涯は大きく4つに分けられ、27才までの全国遍歴の時期、50才までの蝦夷地探検の時期、53才までの開拓使の時代、そして晩年となります。

AD1833年(天保4年)、家出して江戸に行った時から武四郎の全国遍歴の時期が始ります。翌年には西へ中国・四国まで、20才で九州一周、25才の時には朝鮮半島まで渡ろうとしますが、これは叶いませんでした。

AD1844年(弘化元年)、武四郎は蝦夷地探検に向け出発します。翌年第1回探検を行い、函館・森・有珠・室蘭・襟裳・釧路・厚岸・知床・根室を回りました。

AD1846年、第2回探検に出発します。江差・宗谷・樺太・紋別・知床・石狩・千歳を巡る調査の中、有名な儒学者・頼山陽の三男で詩人の三樹三郎と同道したりもしました。

AD1849年(嘉永2年)、3度目の蝦夷地探検は、函館・国後・択捉を回るものでした。そして、翌年からはこれまでの探検の成果を本にまとめ、「初航蝦夷日誌」・「再航蝦夷日誌」・「三航蝦夷日誌」・「蝦夷大概図」・「蝦夷沿革図」などを完成・出版しています。

AD1853年7月8日(嘉永6年6月3日)、アメリカのペリーが4隻の蒸気船で浦賀(現神奈川県横須賀市東部)に入港します。所謂「黒船来航」という一大事の起きたこの年、武四郎は吉田松陰と海防について話し合いました。

AD1854年2月13日(嘉永7年1月16日)、ペリーが再び来航し、7隻の軍艦で現横浜市の沖で開国要求に対する回答を待ちました。この時武四郎は、宇和島藩に依頼されペリー艦隊の様子を調査し、「下田日誌」にまとめています。

AD1855年(安政2年)、蝦夷地御用御雇という役職に抜擢された武四郎は、4度蝦夷地へと探検に出ることとなります。第4回探検は翌年に行われ、函館→宗谷→樺太→宗谷→函館と回るもので、その成果は「箱館往来」として出版されました。

AD1857年、5度目の探検では函館・石狩・上川・天塩を回り、「蝦夷葉那誌」・「新選末和留辺志」を出版します。そして翌年には、現在の北海道すべての海岸→十勝→阿寒→日高と回り、「壺の石(北蝦夷地)」を出版したのでした。

しかし、この年から幕府大老・井伊直弼による「安政の大獄」が始り、その翌年には武四郎と親交のあった、頼三樹三郎と吉田松陰が処刑されてしまいます。この後暫くの間武四郎は、蝦夷地探検の成果を多くの本にしました。

AD1869年(明治2年)、武四郎は前年の徴士箱館府判官事の役職に続き、開拓判官に任命されます。この年、「北海道国郡図」・「北海道国郡略図」などを出版し、蝦夷地を「北海道」と呼ぶことを考案した他、アイヌの地名を基にした郡名などを数多く決めたのでした。

そして、アイヌの人々が商人たちから酷使されている状況を改善しようとした武四郎でしたが、開拓長官は商人から賄賂を受け取り、彼を東京へと配置換えをしたのです。この開拓使の状況に反発した武四郎は、AD1870年開拓判官の職を辞し、趣味を楽しむ晩年へと入って行くのでした。

晩年の武四郎は、古くは縄文時代の古物などの収集をする好古家であったり、雅号を「北海道人」として錦絵を描く浮世絵師であったりします。その亡くなるAD1888年2月10日の直前まで、全国遍歴は止めず、趣味に没頭していました。