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AD1492年、コロンブスが新大陸「発見」を成し遂げます。この快挙によって、アフリカ大陸を大回りすることなく、ヨーロッパからアジアへと向かう航路を見つけることが、ヨーロッパ人の大きなテーマとなりました。

イギリスは、北米大陸の北側を大西洋から太平洋へと抜けるコース「北西航路」の探索に力を入れました。AD1497年とAD1508年にカボート父子、AD1576年にフロビッシャー)、AD1585年にデイヴィスを送り出しています。

AD1607年になると、イギリスの新航路開拓は、北極海を突き抜けるコース「北東航路」にも目を向けるようになり、2年続けてハドソンにこのコース探索させます。そして、AD1612年にはバフィンを北西航路の水先案内人としたのです。

アジアへの新航路の開拓は、多くの冒険的野心に駆られた人々によって続けられ、中には大失敗となるものもありました。その最も有名なものは、北西航路探索の「フランクリン遠征」と言えるです。

AD1786年4月15日、イギリスでジョン・フランクリンは生まれます。織物商の9番目の子として生まれ、下には更に3人の兄弟ができる、大家族の一員でした。

彼は父親の反対を押し切って海軍への道を目指し、14才で軍艦に任官することとなります。そして、AD1801年には「トラファルガーの海戦」でフランスとスペインには勝利するものの、AD1815年は「ニューオーリンズの戦い」でアメリカに敗北します。

AD1818年、スコットランド人海軍少尉ジョン・ロスの下で北極圏遠征を経験します。この時、フランクリンの探検家としての素質が認められたのか、AD1819~1822年には、カナダのコッパーマイン川沿いの徒歩探検を任されました。

しかし、この探検はその後の「フランクリン遠征」の悲劇を予測するかのように、20名中9名の隊員を失うという失敗と言える結果でした。亡くなった隊員のほとんどが餓死で、苔のような地衣類やブーツの革まで食べて生きのびようとしたのでした。

AD1824年フランクリンは、前回の探検の失敗にも関わらず、今度はカナダのマッケンジー川からボーフォート海沿岸の探検を任されます。そして、この探検には満足できる補給があったため、大きな成果をあげることができました。

AD1845年5月19日、運命の「フランクリン遠征」が始ります。フランクリンにとっては、4度目の北極圏探検でした。

北極沿岸に残された未調査部分は、わずか500キロ弱となっており、彼の遠征隊によって、夢に見た北西航路が開通できるところまできていました。しかし、7月26日に捕鯨船プリンス・オブ・ウェールズ船長ダネットが彼らの勇姿を目撃してからは、ヨーロッパ人の目からその姿を隠してしまったのです。

遠征隊には3年分の物資があったことから、初めて捜索隊が出されたのはAD1848年のことでした。ジェームズ・クラーク・ロス、レイ・リチャードソン、ウィリアム・プレーンなどが捜索するものの、遠征隊の消息を確かめることはできません。

AD1859年、フランクリン夫人はマクリントックに、夫の遠征隊の捜索を依頼します。そして、ついにその夏のこと、マクリントックは重要なメモを発見し、フランクリンがAD1847年6月11日に亡くなったことを知りました。

メモには遠征隊が氷で航行不能になった船を捨て、バック川を南下したしたことが書かれていて、マクリントックは数体の亡骸と廃棄された装備品を見つけ、先住民からは遠征隊の悲惨な末路を聞かされました。こうしてフランクリンの遠征隊の消息が分かったのは、探検開始から14年後のことだったのです。