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かつてアフリカ大陸は、その実情を知らないヨーロッパ人にとって、「暗黒大陸」と呼ばれる未開の地とされていました。

そんなアフリカ大陸を3度にも渡る探険をして、ヨーロッパ人として初めてアフリカを横断した人物がいます。

彼の名前は、デイヴィッド・リヴィングストンと言って、スコットランドの宣教師で医師、探検家でもある人物です。

彼は、AD1813年に生まれ、AD1873年に亡くなりました。第一回目の探険をしている頃、日本にはペリーが来航しています。

AD1840年12月8日、彼はイギリス領南アフリカへ向けて出航し、ケープタウンに到着後、現在のボツワナのクールマンに住居を決めました。宣教師としての派遣でした。

第一回目の探険は、AD1841年に始まります。クールマンの北東二百キロにあるマボツァを第一の拠点とします。

その直後、夜間に彼は野生のライオンに襲われ、左腕に重傷を負います。AD1844年、クールマンで宣教師モファットと合流し、彼の娘メアリーと結婚します。

AD1846年までには、マボツァで布教と医療活動をしていましたが、現地人の反発で、拠点を移しました。

一行はカラハリ砂漠を北上し、AD1849年8月1日、ヨーロッパ人としては初めて、ヌガミ湖に到達します。

AD1851年6月、マコロロ王国を通り、インド洋に注ぐザンベジ川に到達します。翌年、子供が熱病に罹り、これ以上の探険は危険と考え、家族をイギリスへ帰しました。

AD1854年5月31日、アフリカ南部から南大西洋沿岸のルアンダに到着します。熱病・赤痢・飢えに悩まされました。

AD1855年11月17日、ヴィクトリアの滝をヨーロッパ人として初めて見て、翌年3月2日、インド洋沿いのケリマーネに到着します。

ヨーロッパ人初めてのアフリカ大陸横断でした。彼はこの探険の報告によって、イギリス王立地理協会からメダルを授与されています。

第二回目の探険は、ヴィクトリア女王から、ケリマーネ駐在大使とザンベジ探険隊長に任命され、AD1858年に始まります。

ザンベジ川河口に到着したのは5月14日でした。シレ川やマラウィ湖の辺りを探険し、AD1860年にはマコロロ王国を再訪します。

翌年、ルブマ川の辺りを探険し、AD1862年に妻と合流するものの、4月27日彼女はマラリアで亡くなります。意気消沈するリヴィングストンは、翌年7月23日帰国します。

第三回目の探険は、AD1866年に始まります。1月16日にタンザニア、3月22日にルブーマ川河口に到着し、4月4日に内陸部への探険に出発しました。

今回の探険の目的は、ナイル川源流の探索です。ナイル川は上流のひとつ白ナイル川はまだ源流が確定していませんでした。

リヴィングストン最後の探険は、非常に苛酷なものでした。出発時に36人いた従者は、どんどん脱落していき、最後には4~5人にまで減ってしまったということです。

彼自身も体調を崩し、タンガニーカ湖畔の村ウジジで、静養をしながら探索も続けていました。イギリスでは、彼は死亡したのではないかとの噂も広まっていました。

AD1871年11月10日、リヴィングストンを探索していた探検家スタンリーが、彼を見つけることとなります。

この時の二人の出会いは、あまりにも有名で、スタンリーが発した言葉は、思いがけない対面での慣用句になっています。

リヴィングストンは探険を続けましたが、AD1872年5月1日、ついにマラリアの複合症で亡くなりました。彼の遺体は、第一回目の探険で負った傷によって確認されました。

ちなみに、白ナイル川の源流は、彼の意思を継いだスタンリーによって確定されています。